嫌いでもいい、関わらなくてもいいけれど
最近“メロンソーダもどき”にハマっています。
「もどきってなんだよ」
クックパッドさんを見ていたら「炭酸水+かき氷シロップで簡単にメロンソーダが作れる!」という記事があったので作ってみたら、簡単で美味しかったです。
混ぜるだけですしね……
で、気づいたんですけど。体重が増えました。
そりゃ、砂糖を水で薄めて飲んでいるわけですから、太るわけです!これからは1日1杯にしようと思います……
近況はこれくらいにして、本題です。
先日後輩と話していたら「私は私を理解してくれない人とは関わりたくない」「その方が楽だから」と言っていました。
僕は常々「自分と合わない人とは関わる必要はない、わかりあう必要もない」と言っています。だから、後輩の言いたいことも(自分なりに)理解はできます。
だけど……僕の「関わらない」は後輩の想像とはちょっと違うと思うんです。
多くの人がそう思っていると思うけど、「関わらないこと」=「無視」ではないんです。
人間は社会に生きています。人間は人間であり続ける限り、この“社会”になんらかの形で属することになる。人は一人では生きられません。(何度も言いますが)
だけど、社会というものは人間の集合体なわけで、当然その中には自分とは合わない人が一定数存在している。そういう人を「嫌いな人」と呼んでいるのだと思います。
学校で「みんな仲良く」とかいうものだから。なんとなく漠然と「人は嫌ってはいけない」という暗黙の了解がありますが……人を嫌うこと自体は悪くもなんともないんです。
それはただ「合わない」という事実にすぎないので。
一方で、人は一人では生きられません。だからこそ、合わない人間とも社会で「妥協」して「折り合いをつけ」なければいけないんだと思います。
その方法の一つが「関わらない」という選択です。
Q:じゃあ「関わらない」って何? A:相手に対して常にニュートラルでいること
僕は、関わらないって「ニュートラル」でいることなんだと思います。もっと言うなら、「この相手から何かを感じるのは無駄だ」と諦めることだと思うのです。
「大人になるって諦めることを知ること」というセリフは色々なところで使われています。
それって「家族や責任を背負うことで“自由”を自ら制限する=合理的な判断をする」という意味で使われることが多いのですけど、多分本来は違うんじゃないかなって最近思う。
「諦めることで社会でうまく生きて行く」ってことなんだと思います。
まったく違う他者を理解するのってとても難しいことなんですよ。全員が「わかりあう」っていうのは無理です。だから、諦める。
でも、諦めるのであれば、それは「相手から何かを得ることをやめる」ということです。それは「感情」かもしれない「インスピレーション」かもしれない……。つまり「理解を求めない」ということです。
一方で、相手を傷つける行為(いじめとか無視とか)を行うことは、根底に「どうして理解してくれないの?」があると思うんです。
それは「関わっている」と思いません?
もし諦めるのであれば『自分を理解してもらうこと』も同時に諦めなければいけないのです。等価交換ですよね。
Twitterで「どうして(少数派の自分は)受け入れてもらえないんだろう」というツイートをよく見かけます。同じことだと思います。
多分これは僕もそうだけど……
そういう人たちは「多数派の意見」を受け入れていないと思います。自分たちは「理解されない」と言いながら、相手を理解しようとはしていないんです。だって「わかりません」もんね。【後輩のパターン】
人間同士が関わりあうことで、他者から得られるものってとても多いと思うんです。
多くの人と関われば「多くのデータ」が得られるわけです。一方で、その中に含まれる「合わない人」に固執する必要ってないんですよ。相手と「関わっ」て「理解しようとし」て、それでも理解できない人は「合わない」人です。
そういう人からは逃げてもいいんじゃないかなって思います。
「必要な時」に「協力」(妥協)すればいいんじゃないかなって。
ああ、その前に一つだけ忘れないでください。
「自分を理解しようとしてくれる人」は、「自分を肯定してくれる人」よりずっとずっと貴重です。そうやって自分に時間を割いてくれる人に対しては、自分からも時間を割いてもいいんじゃないかと。
結局、世の中は「等価交換」ですよ。(笑)