「それは大学で習うことだから」には納得できない。
おととい、僕は思い立って、東京のチベットにある母校を訪ねた。
僕が在学中に定年退職されたK先生(この学校が立ったときからいるらしい)によると、この学校をつくるにあたって、利益とか住人の抵抗とか、その他諸々が絡まって学校を丘を切り崩してつくることになったらしい。
中高の校舎は丘の頂上にあるので『大雨が降っても大丈夫!』がウリらしい。
100人乗っても大丈夫な物置みたいなセールス文句だ……
僕は恩師に会いに行ったわけだが……来年には50(出会った時は40代前半だった)になる恩師が寒いギャグを飛ばしてくるので「ああ……この人の年をとったんだなぁ」と思ってしまいました。
人は年をとると親父ギャグを言いたくなるようです。疲れているのかな、テスト前ですしね。
さて、僕は中高一貫だったので、この母校に6年通っていたわけで。
その6年の中でそれなりに、納得できない言葉をかけられた。(僕も生意気な生徒だったろうし)その中でも「傷ついた」経験ではない意味で、今でも納得できない言葉がある。
“それは大学で勉強することだから”
僕は知識を得るのが好きな生徒で、「わからないことをわからないと言える」生徒だった。そう言えば聞こえはいいけれど、学校という集団においては、ただ“空気が読めない”ということだけにしかならない。
この言葉をかけた教師(彼自身は嫌いではなかったし、むしろ優しい人で好きだった)の担当は化学だったから、僕は授業中にわからないことをを質問し続けて50分授業のうち10分、20分教師と話すことも少なくなかった。
空気が読めないからね……
彼はいつも質問を途中で区切る時「それは大学でやることだから」と繰り返した。
40人の授業で僕だけに合わせるのは正直無理だ。自分でもやってみればわかる。
だから、彼の言葉が間違っていたというつもりはない。どちらかと言えば、彼に感謝しているくらいだ。
だけど、“知らないことを知りたい”と思う気持ちはきっと勉強にしても教育にしても何にしても、大切な欲求だと思う。
「大学に入ってやるから」と言われて、そのままになってしまった疑問を大学生になった僕は(文系に進んだこともあって)一つも思い出せない。「わからない」と思った気持ちは一期一会なんだと思う。
多分、その時・その瞬間にしか感じられないものなのだろう。
それに、大学に行ってもその疑問全ては解決できない。
卒業論文を書くことを軸に置く大学では、論文の主題1つが主になる。当然何十年も命をかけて研究する人だっているわけで、4年かけたってその一つすら全ては理解できない。
大学は何でも勉強しようと思えばできる。だけど何でもを理解することはできない、そんな場所だ。
何が最善だったかなんて、過去の僕も、今の僕もわからないけれど。最近「ああ、勿体無いことをしたな」とは思う。
だからこそ、僕は「それは大学でやることだから」という言葉には納得できない。